雑記

夏の勉強会レポート・その3

近頃、急に涼しくなってあの暑い、暑いと文句を云っていたのがうそのようです。まあ天候は神さまの領域なんで、文句をいっても仕方ないじゃないかと思っていましたが、近頃の科学の力はそんな気候まで左右するようになってしまったので、あまりのほほんとしてもいられないのでしょうが…。まあ何はともあれ、この夏の勉強会レポートもその3で締めくくりたいと思います。いましばらくお付き合いください。

さて前夜の怒涛の呑み会もつつがなく? 終了し、落ちるように眠った翌朝、前に書いた地獄谷を経て日本古代の胎動の地、明日香村へ。石舞台古墳は教科書で何回も見ていたものですが、やはり近くにきて直に観るのではまったくちがう感動がありました。巨石を積み上げて作るその古墳は、とうの昔に盗掘されて、今は人が葬られるスペースとしてはまったくバカでかい空間が残っているだけですが、さぞや築造当時は政敵の恨みやら、鎮魂の思いや、たたりを恐れる人々の恐々とした思いや、なんやかやの想念が渦巻いた畏怖すべき場所だったんでしょう。今はそんな想いも過去の彼方へ、花見にちょうどいい公園となっておりました。

さて今回、面白かったのはタクシー会社の運ちゃんが特別、「ここは古墳好きにはたまらん穴場ですよ~。」とつれていってくれた箸墓古墳です。まったく住宅地の一角にある、通りがかりでは気付かない古墳です。人ん家の脇の人一人分の細い道を歩いていくと小山のような古墳の入り口、ここはたいていの古墳が金網などをはって中に入れないのと違って、誰でも中に入れる古墳であります。小さなスペースですが、中に入ると真夏なのにひやっとする空間、そこにスペースの割に大きな石棺がありました。端に穴が穿たれてそこから盗掘はされていますが、リアルな空間でそのまま石棺を観るのは初めてで、これは興奮しました。石棺の内部を懐中電灯の明かりで見ることもでき、考古物を扱う人にとっては一度は訪れたい空間でした。



そして最後にあまりにも有名な明日香の象徴、高松塚古墳です。折悪しくか、はたまた天の恵か、ギラギラした晴天を破って強い雨が降ってきました。あわてて資料館のなかへ、詳細はみなさんよくご存知と思いますのであえて書きませんが、ある種の古代の強い磁場に溢れた空間に身を置くという体験は言葉になかなかならない貴重なものでした。

そんな事で最後になぜか、古都の焼肉屋で晩御飯を食べて胃袋も気持ちも満腹で帰ってきたしだいであります。みなさんも行ったことのない人には是非お勧めいたします。

改めて、いろんな事を吸収していくのは何も本を読むだけではなく、こうしてその場所の空気をすうことがとても重要であるとの認識を新たにしました。そうすることで机上の空論でなく、自分の血肉になった言葉でお客さんにものの説明ができるんではないかと思います。気の説得力というか、自分の考古に対する想いが今まで以上に伝わりやすいのでは、と勝手かもしれませんが思っています。改めてこの企画プロデュースをしてくれた友人に感謝したいですね。

以上で夏の勉強会レポートは終わりです。またの機会には面白いレポートが書ければと思っとります。それではみなさんお元気で!!!

勉強会]2010年9月27日

夏の勉強会レポート・その2

暑い、暑いとばかり云っていたのに、今日これを書いている朝は、前日の雨のせいですっかり秋のような涼しさになりました。異常気象と云いながら、季節は確実に移り変わり、昼間はまだまだ暑さが続くかもしれませんが朝晩は爽やかになりました。今日は夏の勉強会レポート・その2であります。

前回、奈良の道具屋 河瀬のご主人河瀬洋三氏のお話をお聴きしたことを書きましたが、その後近くにある(ほんと文字通り目と鼻の先です。)史跡、頭塔を観に行きました。奈良時代の僧、玄肪の首塚であるとの伝承がありますが、定かではありません。住宅地の中に忽然と現れる石の基壇を積み上げたストゥーパ、 塔は他にあまり例のない建物です。今は崩れかけていた塔を整備し、石積みをやり直し、石仏の上に屋根を設けていますが、観光コースからはずれ、ひっそりとした丘の状態で永らくあったようです。その塔のあちこちの屋根の下に奈良時代と推定される石仏が(主に如来像とその脇持、)安置されていて、近くで見られないものの不思議なエキゾチズムを漂わせています。築造当時はさぞや立派で、その当時の人々の敬虔な祈りを集め、また好奇の眼で眺められたことでしょう。こんな静かな場所にこんなにすごいものがあるなんて、最初から驚かされました。



さてその後、チャーターしたタクシーで春日奥山ドライブウェイへ。見晴らしのよい場所で休憩したあと、今度は地獄谷の石仏、そして穴仏とよばれる石仏群を観に行きました。いまは覆い屋がされていますが、その昔はさわるように眺めることもできたんだろうとおもいます。平安時代末期の製作で、同じころの製作の大分県の国東半島の石仏群を思い出しました。東大寺建立の為の凝灰岩を切り出したあとに彫られたもののようで、この小山で修業する修険者がたくさんいたのでしょう。またここの谷に遺体を捨てたかもしれません。文字通りの地獄を救済する装置としてほとけがあらわされていると想像しています。

その後険しい山道を歩き廻り(険しいといっても、それは自分の運動不足からで、他の人には普通のハイキングコースかもしれませんが…。)奈良から柳生への物資通行の為、馬が歩きやすいよう江戸時代、奈良奉行が敷かせた石の道を通って首切り地蔵などを観てからこの山を後にしました。

くたびれて脚はがくがく、しかし見応えのある史跡群で、今まで地獄谷の如来像など拓本は何度も扱ってきたのですが、実見するのは初めてでいい経験になりました。

そんなこんなでぐったりしてすぐ寝てしまうかと思いきや、そこで終わらない酒好き共、夕食と云う名の飲み会になだれ込んでいくのでありました。ぐだぐだなのでもうこれ以上書けません、このへんで失礼いたします。

勉強会]2010年9月9日

夏の勉強会レポート・その1

もういいかげんうんざりする挨拶ですが、いや~あっついですねぇ~。しかし日中は暑くても朝晩にひんやりする空気が感じられるようになってきたのは、確実に秋に近づいているということですね。秋になればまた一段とおいしい旬のものが出てきて、ますますお酒が進みますねぇ、ありがたいことです。自然の摂理に感謝しつつ、今日は先日行ってきた奈良での勉強会レポートです。

実はわたくし奈良へは毎月行っているんですが、それは交換会という骨董商同士の市場に行っているだけで、恥ずかしながらあまり周辺の史跡などには行ったこ とがありませんでした。そこで奈良の店で修業をした同業の友人にコーディネートしてもらい、一泊二日で仲間数人と勉強会に行ってきました。まずは新幹線で 一路、京都へ、それから近鉄に乗り換え奈良へ。なんども訪れた奈良の地もこうして電車でくるとなんとなく旅行気分で新鮮です。

まずお昼は予約してあった「塔の茶屋」へ。ここは興福寺の敷地内にある、茶がゆをだしてくれる懐石料理屋さんです。経営は骨董商の大先輩である河瀬洋三氏、われ われのために特別に骨董のうつわで料理を出してくださり、改めて長年たくさんの数寄者に愛されてきた懐石道具の素晴らしさ、食器として料理を盛ったときの 美しさに心が洗われるようでした。お料理もアボカド入り養老豆腐から始まり、冬瓜、鮎、鱧、松茸、など巧みに手をかけたおいしい料理をいただき、〆は茶かゆ、夏場は冷たいのも用意してくれるのもうれしいところ。満腹でお店を後にしました。

そしてその河瀬さんのお店へ伺い、むかし話をお聴きする勉強会が始まりました。お父上の河瀬虎三郎氏は松永耳庵や小林逸翁、細見古香庵などの名だたる数寄者と親交があった方で、最初は刀剣のコレクターでした。あるとき奈良の骨董商、柳生彦蔵氏に「刀剣もけっこうですが、いちどお茶も…」と勧められ、茶会に招かれたそうです。感銘を受けた河瀬氏は後日、柳生彦蔵氏に「先日のお茶会の道具、茶碗、香炉からなにから一切合切いただきたい。」とおっしゃって、そこから京都のお茶とは違う、奈良の仏教美術を取りれた奈良流のお茶、河瀬虎三郎の数寄が始まったのです。この話はすでに本で読んで知ってはいたのですが、やはり大先達の口からじかにお話が聴けたことに、何と云うか同じ道を歩むものとして貴重な体験をさせていただいたな、と感銘を受けました。

その他にもいろいろと面白いお話をお聴きしていたのですが、すべてを書く余裕も無いのでこれくらいにしときます。とても参考になるなと思ったのは、仏教美術を取り入れたお茶と云うのは、新しい視点でお茶を見つめて活性化したすばらしい流れだったということです。現代のわたしたちにはまた違った、何も金額の高い物を使うだけではなく、新しい視点でお茶を愉しむ「数寄ごころ」がもっと必要なんではないかということでした。自分もおもしろい使い方をお客さんに提示できるようなセンスが、もっともっともっと必要なんだなと改めて思わされた勉強会でした。

まずはレポート・その1でした、続きはまた近日中に、それでは失礼いたします。

勉強会]2010年9月2日